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連載 ルポ 子どものQOLを支える
 

デジタル・ネイティブの育ち方を取材した『ルポ スマホ育児が子どもを壊す』や日本初の民間小児ホスピス「TSURUMIこどもホスピス」を取材した『こどもホスピスの奇跡』で話題を呼んだノンフィクション作家の著者が子どものQOL向上で特筆すべき活動をしている施設への取材を通して、医療や福祉の在り方を問います(次回更新で過去の連載記事は読めなくなります)。

第5回 ゴールドリボン・ネットワーク
石井光太(作家)

1977年生まれ。アジアの障害のある物乞いを扱ったノンフィクション『物乞う仏陀』でデビュー。その後、国内外の貧困、病気、犯罪など多様なテーマで作品を多数発表。難病の子供のQOLをテーマにした『こどもホスピスの奇跡』で新潮ドキュメント賞を受賞。現代の若者の生きづらさを言葉から見つめた『ルポ 誰が国語力を殺すのか』、特別養子縁組制度を作った菊田昇医師の評伝小説『赤ちゃんをわが子として育てる方を望む』など。

ゴールドリボンは、小児がんの子どもたちを支える活動のシンボルマークだ。

近年は東京マラソンなど、国内の様々なイベントでもこのシンボルマークを目にすることが増えた。

日本でこれを広めているのが、公益財団法人「ゴールドリボン・ネットワーク」である。病院で闘病をしている子どもや家族に対する経済的・物理的な支援だけでなく、医療者の研究助成や全国規模の啓発活動といったプロジェクトを多岐にわたって展開している。

全体的に見れば、民間の支援団体で子どものQOLを支える活動をしている人たちは、医師や看護師、それに遺族など、当事者としての経験のある人が多い。医療現場にいた人たちが、日々の業務や闘病の中で社会に足りないものを見つけ出し、それを埋めようとした結果が活動につながっているのだ。

それゆえ、彼らの活動は、細かなところで当事者が求めるニーズに合っており、確実な成果が出やすい。そしてそれが封建的な医療業界に新しい風を吹き込ませる原動力になっている。

一方で、こうした当事者の活動は、リアルな体験に基づいているからこその盲点もある。個人の経験から出発しているため、活動領域が限定されがちなのだ。つまり、特定の地域、特定の病院、特定の病気に対する活動に絞られ、それ以上広がる余地が生まれにくいことがあるのだ。

社会全体で難病の子どもたちに対する理解と支援を広めるには、当事者の体験に根差した細かな活動と同時に、より広い層を取り込むことを目指す大局的な活動も必要になる。それを行っているのが、ゴールドリボン・ネットワークなのである。

ゴールドリボン・ネットワークを立ち上げたのは、初代理事長の松井秀文氏だ。松井氏は医療者でもなければ、当事者でもない。彼は国内のがん保険のシェア1位を誇るアフラック生命保険株式会社(以下「アフラック」)の創業メンバーであり、社長、会長を歴任した人物だ。

松井氏がゴールドリボン・ネットワークを立ち上げたのは2008年のことだ。ちょうど会長を退き、相談役をしていた頃のことである。彼は自らNPO設立の申請書類の作成などを一から行い、自ら協力者を募り、組織を大きくしてきた。

松井氏はゴールドリボン・ネットワークの活動を次のように表現している。

「私にとってこれは、恩返しなんです。社会に対する恩返し。そのために十数年、この活動に専念してきました」

恩返しという言葉の奥には何があるのか。松井氏に話を聞いた。

恩返しの意味

石井 日本でNPO法人ゴールドリボン・ネットワークが設立されたのは、2008年のことです。それから早17年が経ちますが、最近は様々なところでゴールドリボンの活動を目にするようになりました。

これまでの松井さんの記事を拝見させていただいて意外だったのが、子どもを取り巻く環境を改善したいという思いが先にあり、その中の一つとして小児がんに関する活動に取り組んでいらっしゃるという姿勢でした。最初から小児がん支援ありきでの活動ではなかったようですね。

松井 私は2007年にアフラックの会長を退いて相談役になったのですが、この時に残りの人生を「子どもが安心して暮らせる社会の実現」に捧げたいと思って、取り組むテーマを探しはじめたのです。具体的には、子どもを対象にした支援をいろいろと見て回りました。

私が最初に訪問したのは、障害児のための施設と児童養護施設でした。結論から言えば、どちらもそこまで深く踏み込みませんでした。

障害児に関しては、小倉昌男さん(ヤマト運輸の宅急便の生みの親)が株式会社スワンというベーカリーを設立し、障害者に働く場を提供し、自立支援の体制を整えていました。私も障害者が作ったパンを企業の中で販売するような支援をしましたが、ゼロから新たなプロジェクトをスタートするまでには至りませんでした。

児童養護施設は、知人に紹介してもらい、千葉県の施設を訪れました。まだ施設の子どもたちへの学習支援が乏しい時代だったので、後援会を設立し、後援会長になってお金を集めて、塾に通ったり、大学や専門学校へ進学したりするための奨学金を中心とした支援制度を設けました。この活動は今でもつづけていますが、一施設での活動に留まっています。

こうした中で、ようやく自分が生涯取り組むテーマだと感じたのが小児がんの支援でした。

石井 アフラックは、がん保険で国内シェア№1企業です。それと関係があったのでしょうか。

松井 今考えれば、縁なんだろうなと思いますね。

私が大学卒業後に新卒で入ったのは川崎製鉄でした。4年でそこを辞めた後、短い期間でしたが損害保険会社にいた時に大竹美喜さん(アフラック日本支社創業者で、4代目社長)に声をかけられ、アフラックの日本支社の設立にかかわることになったんです。

当時、アフラックはアメリカの小さな保険会社にすぎず、大竹さんから社名を聞いても「アメリカの会社? がん保険? 何それ?」という感じでした。がん保険にどれだけの可能性があるのかもわからない。当時銀行に勤めていた親友にも調べてもらったのですが、「どこを調べても分からない。そんな会社やめた方がいいよ」と言われた。

それでどうするか悩んでいたら、たまたま自宅に『経友』という小冊子が送られてきたんです。私の母校である東京大学経友会が発行している学校の同窓会誌で、そこでは複数の卒業生が近況を綴っていました。

何気なくそれを開いたところ、「娘を不治の病に奪われて」というタイトルの寄稿が目に留まったのです。福地誠一郎さんという方が書かれたもので、そこには福地さんの娘さんが白血病で2年8カ月も闘病をした末に6歳で亡くなった時の壮絶な記録がつづられていました。

小児がんのことをまったく知らなかった私にはとてもショックでしたし、「このいまわしい病気が早くこの世からなくなるよう研究を進めることを心から願いたい」という一節が強烈に頭に残りました。それで小児がんのことを知りたいと思い、末尾に記されていた「がんの子どもを守る会」という団体を訪ねることにしたのです。

がんの子どもを守る会の事務所には、たくさんの当事者の手記がありました。読んでみると、小児がん治療は単なる病気との闘いではなく、経済的な問題が大変大きいということを知りました。闘病の過程で家族そのものが壊れてしまう場合もあるという。私はこうしたことをなくすには、日本にがん保険を浸透させる必要があると考えました。それで、アフラックの日本支社の立ち上げにかかわることを決めました。

石井 当時の医療では、患者に対するがんの告知すら一般的でなかったので、がん保険なんて売れるわけがないというのが定説だったそうですね。しかし、やってみたら違った。そこに大きなニーズがあり、どんどん顧客数が増えていき、アフラックは誰もが知る大企業へと成長しました。

ただ、がん保険は、昔も今も成人向けが一般的です。年間にがんと診断される成人は95万人近いのに対して、子どものそれはわずか2000~2500人ほどです。親の方もまさかわが子が小児がんになるとは考えない。そうなると、小児がんの保険の普及は難しくなります。

松井 おっしゃる通りです。アフラックの創業時のがん保険には家族契約があり、0歳からの子どもを自動的に保障していましたので、小児がんの子に対する支払い実績はありました。しかし、当時の家族契約の件数と小児がんの子を持つ家族数を見ると、保険のおかげで経済的な負担を回避しながら小児がんの治療を受けられたというケースはそう多くはなかったと思います。

石井 松井さんにとって、小児がんは保険業界に入るきっかけだったのに、実際にはその部分ではあまり力になれなかった。このことに対する忸怩たる思いみたいなものはあったのでしょうか。

松井 ずっと気になってはいましたね。会社経営に携わる身としては、保険をビジネスと捉えてやっていかなければなりません。小児がんは人数が少ないのでマーケットが小さく、例えば製薬会社が小児がん用の医薬品を開発しにくいという問題があります。保険の場合は、小児がんの発症率や入院データが少なく、保険料計算が難しいという問題がありました。だからビジネスとは別の形での働きかけが必要だろうとは思っていました。

石井 社長に就任した後、松井さんは社会貢献プログラムとして「アフラック・キッズサポートシステム」を作っていますね。これによって、がんで親を失った子の支援をする「公益信託アフラックがん遺児奨学基金」や、闘病中の家族を支えるファミリーハウス事業である「アフラックペアレンツハウス」などを展開しました。これをはじめたのは、ビジネスとは別の形での子どもへの支援が必要だという思いがあったからでしょうか。

松井 はい。企業の社会的な責任として子どもの未来を守らなければならないと思っていましたし、がん保険をやっている以上は、がんで困っている人を助けなければならないという意識がありました。

石井 こうしてみると、松井さんが第一線を退いた時に、ビジネスとしてほとんど手を付けられてこなかった小児がんの子どもたちの支援を、ゴールドリボン・ネットワークという形でスタートしたのは必然だったという気がします。

寄付文化を作る

石井 ゴールドリボン・ネットワークは、今でこそ池袋に事務所を構えて、専属のスタッフをたくさん抱えていますが、最初は文字通り松井さんの手弁当ではじめられたと聞いています。

松井 ゴールドリボン・ネットワークは本当に私の思いではじめたものだったんです。小児がんの子どもの支援をしたいという意識はあったけど、それをどうやっていいか具体的なイメージがわかなかった。そんな時、六本木でピンクリボンが資金集めのための大規模なパーティーを開催し、たまたまそこに私も参加したんです。この時にリボンのマークを目にして、同じ発想でやったら小児がんの理解や支援につなげられるんじゃないかというアイディアが浮かんだ。

石井 ピンクリボンは、1980年代にアメリカではじまった乳がんの啓発運動です。2000年代には日本にも広がって、病気の恐ろしさや検診の必要性をアピールしてきました。運動の一環として東京タワーをピンク一色にライトアップしたことでも有名です。

松井 当時からピンクリボンはインパクトのある活動を通して、多くの企業さんを巻き込んで活動していました。乳がんは1年に9万人くらいの人がかかるので、小児がんとは規模は違いますが、似たようにロゴを前面に出すことによって社会運動を展開できるのではないかと思ったんです。調べてみたら、アメリカに「ゴールドリボン」をシンボルとした小児がんの啓発運動があることを知った。問い合わせてみたら、リボンの形には決まりがないとのことだったので、自分たちで一からデザインしてやっていくことにしたのです。

石井 この頃は相談役に退いていたとはいえ、アフラックの元会長です。私みたいな経済界の素人からすれば、松井さんが一言号令をかければ、アフラックが多額の資金を出して、総出で運動を後押してくれそうなイメージがあるのですが……。

松井 いや。いや。そうではなかったです(笑)。私が広報の人に相談したら、「松井さんの思いを実現したいなら、ご自身でNPOか財団を作ってやった方がよいです」と言われましたから。それでNPO法人の申請のやり方なんかを一から調べて自分で立ち上げたんです。この時は事務所だってありませんし、専属スタッフだっていませんからね。

嬉しかったのは、そんな草の根の運動を応援してくれた人たちがたくさんいたことです。運動に必要な資金を集めるために、ゴールドリボンのバッジを作って、応援してくれないかと周りにいた人たちに頼んで回ったんです。そしたらアフラックの社員や、代理店の関係者がポケットマネーを出してくれて、1200名強の方が会員や寄付者になってくださり、お金が集まった。それが最初の運営資金になったんです。

石井 会員、寄付者のほとんどが企業ではなく、個人とのこと、それだけの人が協力したというのは驚くべきことですね。保険業界の方々だからこそ、小児がんの支援の重要性をわかっていたということもあるのかもしれません。

松井 それからは少しずつ企業も協力してくださるようになりました。その一つが「ゴールドリボン支援自動販売機」です。大手の飲料メーカーが我々の活動を理解してくださり、その自動販売機で買うと売り上げの一部が寄付となる仕組みになっています。

同じような仕組みで、バナナに「ゴールドリボン支援」のシールを貼って販売していただいたり、トイレットペーパーでも似たようなことをやっていただいたりしています。私たちの方から働きかけているだけでなく、企業の方から活動を知って手を挙げてくださったこともあります。

石井 ゴールドリボン・ネットワークは、東京マラソンのチャリティの寄付先団体でもあります。

松井 東京マラソンのゴールドリボン・ネットワークのチャリティで興味深いのは、日本人より外国人の方からの寄付が多いことです。2025年度で言えば、日本人15名に対して外国人が191名となっています。東京マラソンは世界の七大マラソンの一つということもあり、外国の方の参加意欲は高く、最低寄付額の10万円以上を払ってくださる方もたくさんいます。

石井 今回の対談企画のテーマの一つとなったことに寄付文化があります。こうした活動は、寄付なくしては成り立ちませんが、欧米に比べると日本にはまだまだ寄付文化が根付いていないという意見もありました。

松井 私の経験から申し上げれば、昔と比べると、かなり寄付文化は浸透してきているという感覚はあります。クラウドファンディングやふるさと納税の広まりの影響もあるでしょう。ゴールドリボンをはじめた頃の感覚からすれば、相当成長したなと思っています。

ただ、日本で活動する団体の中には、情報発信が苦手というところも少なくありません。熱い思いに突き動かされてやるのはいいことですが、単に寄付を待っているだけではなかなか協力を得られない。

必要なのは、団体がきちんと自分たちがどのような活動をしているのかを示すことです。こういう活動をしていて、寄付していただいたお金はこのように使われますということを自らアピールしなければつたわらない。

クラウドファンディングではそれができる設計になっていますが、そうではないところでもどんどんやっていかなければなりません。ゴールドリボンで言えば、最近はSNS経由での寄付が増えています。SNSで活動内容をきちんと発信することで、手を挙げてくれる人はたくさんいるのです。

石井 そういう意味では、支援団体もビジネス的な視点というか、きちんと戦略を練ってやっていくことが、寄付文化を醸成させるキーになっていくのかもしれませんね。

ちなみに、現在、ゴールドリボン・ネットワークで働いている専業スタッフはどういう方々なのでしょうか。

松井 我々の活動に賛同してくださった方々ですが、実は小児がん当事者は1名しかいないんです。子どもの問題に関心があって、たまたまゴールドリボンを知ったから、応募してきた方が多い。

石井 医療関係の支援団体の多くは、当事者が行っています。しかし、ゴールドリボン・ネットワークは、松井さんもそうですが、他のスタッフも専門外のところから集まっている。そこに社会運動を行う際の強みがあるように感じます。

三本柱の事業

石井 ゴールドリボン・ネットワークでは、大きく分けて三つの活動をされています。

 1.小児がん患児・経験者のQOL向上
  2.小児がんの情報提供と理解促進
  3.研究促進を目的とした研究助成と留学支援

それぞれの内容についてうかがいたいのですが、1のQOLはどのようなことをなさっているのでしょうか。

松井 ご存じの通り、小児がんの闘病中、あるいは経験した子どもたちは、QOLが低下する傾向にあります。うちでは遠方の病院で治療を受ける際の患児や付添の方の交通費・宿泊費などを支援しています。また、お子様が小児がんで入院治療することとなったひとり親世帯への支援、小児がん経験者への奨学金制度、さらには患者会の行う交流イベントなどの支援をしています。

活動をする中で感じるのは、大人にしてみれば些細なことであっても、子どもにとってとても重要なことがたくさんあるということです。

たとえば、うちでは新潟にある老舗メーカー丸正ニットファクトリー㈱様からゴールドリボンマーク付きのニット帽をまとめて買い取り、闘病中の子どもに配っています。ある小学生の子は、抗がん剤の影響で髪が抜け、それが恥ずかしくて院内学級に通えなかったそうです。ところが、私どものニット帽をかぶったら、「すぐに『行く!』と喜んで学校へ行ったそうです」ニット帽があるのとないのとでは、その子の生活や人生が違うものになっていくのです。

石井 ゴールドリボン・ネットワークで提供しているニット帽には、様々なカラーやサイズがあるそうですね。

ニット帽といっても、春や夏には一般的な店では取り扱いがほぼありませんし、寒い季節でも院内で被るような薄手の品はなかなか売っていません。親にしても付き添いや仕事で忙しく、いくつもの店舗を回って探す余裕もないでしょう。子どもの方もそれを感じているので、おしゃれなニット帽がほしいとは言いだしにくい。

たかだかニット帽一つと思うかもしれませんが、そういう状況を踏まえれば、ゴールドリボン・ネットワークのような団体が適したものを業者から買い取り、配布することの意義は大きいでしょうね。

2つめの小児がんの情報提供と理解促進はいかがでしょう。

松井 日本では大人のがんに対する理解はかなり深まりましたが、残念ながら小児がんはまだまだです。また、色々な情報が氾濫し、何が正しい情報か分かりにくい社会です。そのため、当事者やそのご家族が正確な情報を得られるよう、私どもの団体では、(公財)神戸医療産業都市推進機構が運営する「がん情報サイト」において、米国国立がん研究所(NCI)が配信する世界最大かつ最新の包括的ながん情報データベースPDQ®(Physician Data Query) の小児がんに関する日本語版作成を支援したり、若年性がん患者団体STAND UP!の出版物の発行支援を行ったりしています。より広い啓発活動としては、ゴールドリボンウオーキングやチャリティーコンサートも開催しています。

啓発活動で大切にしているのは、当事者の生の声を届けるとことです。これまで小児がんの情報が普及しなかった要因の一つに、当事者がなかなか表に出なかったこともあります。外に出ていく環境も整っていませんでしたし、当事者たちも公表することに後ろ向きでした。集合写真を撮る時に、「がんであることが分かるのは困る」ということで外れる人が普通でした。しかし、最近はそれが変わってきていて、小児がんの当事者が自身の経験を人前で堂々と語ることが増えてきています。

石井 どうしてそうなったのでしょう。

松井 いろんな要因があると思いますが、その一つとして関係者の間で「話すことがその子のためになる」という空気ができてきたことが大きいと思います。その子が小児がんの闘病体験や抱えている困難を人前で語れば、自分自身を見つめ直す機会にもなるし、周りに理解してもらうことになるし、巡り巡ってその子が生きやすい環境を作ることにもつながる。だから、自ら体験を語ろうという人が増えているのではないでしょうか。

私どもが毎年行っているゴールドリボンウオーキングでは、まさにその当事者の方々にイベントの中でご自身の体験を語る機会を設けています。少し前にも、4歳で小児がんになり、5度も手術を受け、後遺症によって片目が失明し半身が麻痺した子が、堂々と人前で闘病体験を語っていました。小児がん治療の過酷さを伝えるには、当事者の口から言ってもらうのが一番ですし、その言葉が一般の方々の理解を深めることにつながり、結果、社会を良くしていくと思っています。

石井 近年はSNSなどを通して体験を語る人もいて、社会に情報を届ける手段は確実に増えていますね。

松井 私は必ずしも言葉にするだけが伝える方法だとも思っていません。別の伝え方で、思いがけない効果を生むこともあるんです。

我々の啓発活動の一つに「小児がんの子どもたちの絵画展」があります。がんの子どもを守る会やアフラックも全国各地で展示会を開催しています。

ゴールドリボン設立前ですが、日比谷にある第一生命ギャラリーでアフラック主催、がんの子どもを守る会共催で絵画展を行いました。すると、見に来てくださった男性の方が、絵の前でそれこそ1時間以上も立って、じっと見つめているのです。どうしたのかと思っていたら、その方が帰り際にノートに次のようなことを記していました。

「私はリストラにあって死のうかと思ったが、子ども達の絵を見て勇気をもらった。もう一度頑張ってみようと思う。」

小児がんの当事者の方々の表現は、多くの方々に勇気や感動を与えるものなのです。

石井 わかる気がします。子どもたちが小児がんに侵されても、必死になって戦う姿は、それとは無関係な人たちにもたくさんの勇気や希望を与えます。逆に、小児がんの子どもたちが、他の人たちから生きる勇気をもらうこともあるでしょう。

私には一つそれに関連する体験があります。私は20代~30代前半に途上国の子どもたちのルポを書いていたのですが、その中にインドのストリートチルドレンを描いた『レンタル・チャイルド』という著作があります。

これを出版してすぐ、小児がんで闘病をつづける10代半ばの女の子から、私宛にメールが届きました。そこにはこう書いてありました。

「私はもう何ヵ月生きられるかわかりません。私の病気のせいで、親も離婚してしまいました。生きる意味なんてないと思っていた。でも、本を通してインドの貧しい子たちが必死になって生きているのを知り、なんだかわからないけど、私も最期までがんばって生きなければと考え直すようになりました。あの子たちだってがんばっているんだから、私だってがんばらなければって思ったんです」

きっと人は他人の生きる姿から力をもらって、一歩また一歩と前に進んでいくものなのでしょうね。その連続が人生なのかもしれません。

小児がんサバイバーの生活環境を整える

石井 3つ目の取り組みとして、研究支援と留学支援があります。民間のNPOとして出発された団体が、当事者に寄り添う草の根的な活動に留まらず、こうしたマクロ的な活動をするのは珍しいと思いますが、どうしてはじめられたのでしょう。

松井 アフラックに関わる決断をさせてくれた福地さんの手記の「このいまわしい病気が早くこの世からなくなるように」という想いと接し、「小児がんを治る病気にしたい」という思いがありました。小児がんに必要な研究は、今まさに闘病中の子どもを助けるための治療にかかわるものと、サバイバーが抱える困難を軽減するためのものとに分けられます。したがって、「小児がんの治療率向上」と「小児がん経験者の生活の質の向上」の二つの部門を設けて、それぞれに研究助成をすることにしたのです。2024年度だと28団体、1留学生に、2790万円を助成しました。

石井 特徴的だと思ったのが、二の次にされがちな「小児がん経験者の生活の質の向上」の研究に多くの費用を出されていることです。

松井さんが小児がんの子どもの手記を読んでアフラックの日本法人を立ち上げた頃、小児がん患者の8~9割は亡くなっていたはずですが、現在では医学の発展によって死亡率を2割位に抑えられるようになりました。必ずしも死なない病気になったのです。

だからといって、めでたしというわけではない。小児がんのサバイバーは、「晩期合併症」といって様々なハンディを背負って生きることになります。治療終了後に治療あるいは腫瘍そのものの影響で様々な晩期合併症を発症するサバイバーが約半数います。外科手術で体の一部を切断、麻痺、失明といった、目に見えるようなハンディは分かりやすいのですが、実は成長、発達への影響(低身長、骨・筋肉への影響、学習障害等)や生殖機能への影響(妊孕力の低下等)、臓器への影響(内分泌障害、腎機能障害等)、免疫機能の低下、二次性腫瘍と多岐にわたっています。病院では小児がんを治すことが優先され、晩期合併症のことが後回しにされてきました。

松井 その通りです。以前はいかに小児がんの死亡率を下げるかに重点が置かれてきましたが、今は治すだけでなく、晩期合併症を少なく、また治療終了後のQOLを高めるような治療の開発も行われつつあります。ただ、治療を第一に考えざるを得ない場合もあります。以前より抗がん剤治療も、放射線療法も手術においても合併症を最小限にという治療法の開発は行われていますが、まだまだ十分ではない状況です。

現在は、晩期合併症の発症率を下げるために研究者は努力されています。

小児がんが必ずしも死の病でなくなりつつある今だからこそ、将来を見越してそういう研究にお金を出していく必要があると思っています。

石井 もともと私が小児の難病について関心を持ったのは、晩期合併症から引き起こされる悲劇を知ったからでした。当時、大阪市総合医療センターの副院長だった原純一先生から、「統計はないけど、実体験から言えば、小児がんで生き残った人々の自殺率は、健康に育った人の10倍くらいになるんだよ」と教えられたのです。

その後、サバイバーを自殺で失ったご遺族数名に、お話をうかがう機会がありました。彼らから聞いたのは、幼少期のほとんどの時期を闘病に費やし、なんとか生き残ったものの、身体的な障害だけでなく、目に見えない様々なハンディを負うことになり、生きる希望を失い、自ら命を絶っていった人たちの人生でした。

おっしゃるように、小児がん治療と晩期合併症が一続きであることを踏まえれば、その研究に助成するのは当然のことです。ゴールドリボン・ネットワークでは、サバイバーの就労支援も行っていますが、そうした取り組みの一つと捉えてよろしいでしょうか。

松井 そうですね。就労支援をしていて感じるのは、小児がん経験者の中でも障害者手帳を持っていない人たちの困難です。

先ほども申し上げましたが、晩期合併症は身体の麻痺など見た目で分かるものもありますが、外からは分かりにくい合併症もあり、しかも現行の制度では手帳の基準にかからないものもあります。

たとえば、下垂体機能低下症や腎障害、視野欠損、低身長、尿崩症などの病気を複数抱えていてもそれぞれの症状がさほど重くないため、障害者認定を受けられません。これだけ複数の症状に悩んでいれば、一般企業で健康な人と机を並べて同じ仕事をするのは容易ではありません。晩期合併症を背負いながら、手帳なしで生きていくとは、そういうことなのです。

では、こういう方々のために何をしなければならないのかと言えば、企業にそのことを理解してもらい、彼らを受け入れてもらう橋渡しをすることです。その部分を、ゴールドリボン・ネットワークでやっているのです。

石井 企業は、障害者手帳がある人であれば、障害者雇用枠で受け入れ、国から金銭の支給を受けられます。しかし、手帳がなければ障害者雇用枠ではないところで雇わなければならない。そこまでできる民間企業を探すのは、現実的には簡単ではない気がしますが、いかがでしょうか。

松井 私とかかわりのあるアフラックのような企業は別にして、協力してくれる企業を見つけるのは大変難しいというのが現状です。まったくないわけではありませんが、私たちの努力だけでなく、社会全体が小児がんを理解していかなければならないでしょう。

ただ私はそこまで悲観的には考えていません。たとえば、最近はパラリンピックの注目度なんかも上がってきていますね。ここで活躍している選手の中には、小児がん経験者もいますし、彼らがメディアを通して小児がんを取り巻く問題を話してくれる機会も増えています。そういうことのつみ重ねによって、手帳のない人への理解も着実に広がっていくことを願っています。そういうところのお手伝いも含めて、ゴールドリボン・ネットワークがかかわれればと思っています。

石井 そのゴールドリボン・ネットワークですが、2024年の秋にNPO法人から公益財団法人になりました。組織としての体制はほぼそのままですが、形の上ではアフラックが受け皿の団体を作り、事業を引き継ぐことになった。その意図は何なのでしょう。

松井 私なりの〝終活〟です。私は現在81歳で、いつ何があるかわからない身です。突然私がいなくなり、これまで積み上げてきた活動がなくなり、小児がんの子ども達の支援が減速するようなことが起きないようにしたいと思いました。それで、組織としての体制を固めるという意味で、アフラックの公益事業、社会貢献の一部とすることで継続してもらえるようにしたのです。

石井 アフラックが会社の公益事業としてやってくれるのであれば、社員一人ひとりの意識も高まるような気がします。

松井 もう一つ、当初私が掲げた理念や想いをきちんと継いでもらいたかったということがあります。法人としては、資金を集めにつながるわかりやすい事業をした方が良いという考え方もあると思います。しかし、小児がんの支援で大切なのは、一般の方にはわかりにくくても、当事者の人たちからはニーズのあることに応えていくことです。

これまでゴールドリボン・ネットワークでは、その時々で当事者が一番困っていることに寄り添うようにしました。小児がんで一番経済的ダメージの大きい治療のため患児や家族が病院へ行く交通費や宿泊費。そこをサポートする。晩期合併症の研究が必要なら助成金を出し、自立が困難なら理解ある企業を探す……。どれも理解しにくいことかもしれませんが、当事者にはなくてはならないものです。

ゴールドリボン・ネットワークには、私が離れた後も、ずっとそういう姿勢で取り組んでいってもらいたいと願っています。

石井 松井さんはアフラックの会長を退かれた際、「子どもが安心して暮らせる社会の実現」という大きな目標の中で、小児がんの支援をはじめました。ビジョンが大きかったからこそ、既存の団体がなかなかできないこともされています。そういう姿勢はきっといつまでも受け継がれるでしょうね。

松井 そうなることを強く願っています。


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